「家にいるのがもったいない天気だったから大学に来た」


そう言って、研究室にやってきた久しぶりにお会いする院の先輩。
「あぁ、いいなこういう感覚、なにかわからないけど大学に向かって歩いてたんだろうな」
と勝手に宗教性を感じる自分。




今日は学部の授業にも出る。
「いのちと宗教」がテーマの講義である。
学部生の邪魔にならないようにと一番後ろで先生の話を熱心に聞いて、真剣にノートテイクする自分。
そのとき、急に前の席の女子学生(1年生)から声をかけられる。
「先生が書いたあの字なんて書いてあるんですか?」
おっと、びっくりしましたよ、たまげましたよ。
(ちなみに今日は「たまげた」を変換すると「魂消た」となることを授業で聞く。つまり魂が身体から出て行くほど驚くという意味である。魂の表現やイメージなどは各国によって相違があるので、十分比較思想研究に堪えうるだろう)
バイトも大学の先生の手伝いであるし、大学院の知人たちも皆一様に年上か同い年である。
10代(と思しき)の(お店以外の…)女性に話しかけられるのは久しぶりだったので思わず緊張してしまった。
まぁ、何があるわけでもなく、何があってもいけなく。


4限を受けて、日本生命倫理学会年次大会事務局の仕事をして、6限の授業に出る。
帰宅して西武の見事なサヨナラ負けっぷりを見る。
アホか!!


今日は、先述した先輩とたくさん話したのが印象的だった。
「2か月に1本、原稿用紙30枚程度の論文を10本書けば、積み重なって、構成を考えれば博論はできる」
というお言葉をいただいた。
そうである。
とりあえず、量が少なくてもいいから言語化してしまうことが大事なのである。
というわけで、これから2か月位かけていろいろ考えていたものを言語化していこうかと思う。
(ちなみに言語化したものはPDFファイルとして本ブログからリンクを貼る予定)
みなさんのコメントから得られるものも多く、ぜひこれからも疑問に思ったことは質問していただきたいと願う。
それが、おそらく論文の序文において、問題関心の項に入っていくであろう。




さて、その前に明日のレポートを作らねば。
毎日のようにレポートや課題があるので、本当にGWで借金返済していかないと。

宗教は抽象的か


昨日の日記に対しての奈姉さんのコメントの中で、自分の研究の中でとても重要な示唆が含まれていた。
「宗教は抽象的かつ精神担当であり、医学は具体的であり目に見える(身体的な)ものである」と。
そして「「対立」ではなく「共存」していってほしい」と。


前者の言葉は宗教の一側面を表しているといえる。
宗教とは観念である。
実態というものはない。
あるとすれば、「教団」としての宗教であろうか。


仏教もキリスト教イスラム神道も、もちろん創価学会も、そして今は無くなったオウム真理教も宗教であるが目に見えるものではない。
宗教の構成要素は「教理」「儀礼」「組織」の3つである。
つまり、おそらく一般の言う宗教とはこの3つを指す。


例を挙げれば、


そして自分の学ぶ宗教学とは、社会や歴史の中で目に見えないが実は密接にかかわっていた「宗教」をあぶりだす
作業であるともいえる。
しかし、最近はその前提も崩れてきた。
なぜかというと、それは自分の宗教学を学ぶ上での一つの課題でもあるのだが、上記のように後出しじゃんけんのように、「そこに実は宗教現象があったよ!」などと声高に叫んでも、社会に貢献するという意味での学問は成り立たないのである。
しかし、それらの視点は決して全てが役に立たないわけではない。
そこで自分は現代の視点でもって、ある宗教現象・社会情勢を歴史的にも考察し、今後の宗教現象・社会情勢を見据えた上での新たな「宗教学」を画策しているのである。
生命倫理と宗教」という視点は決してそこから離れてはいけない。
なぜなら、生命倫理は概念は古いが、真剣に倫理として考えられてきたのはごく最近であるし、これから2度と無くなってはくれないからである。


今でも、たとえば親しい人の死期が迫っていたら、枕元で「死なないで、神様お願いします」のように祈ったり念じたりするのではないか。
子どもが産まれた後などでは、「生命」というものを最も認識し、人間より超越的な存在を感じるのではないだろうか。
受験や大事な試合の前日などは、神社に行って健康や勝利を祈ったりしてしまうのではないだろうか。
医療ができないものを宗教がする、宗教ができないものを医療がする。


宗教と科学とはおそらく共存できていた。
しかし、宗教は従来の位置に安住し、科学はそれを何足も跳んで飛び越していってしまった。
ここについての具体的な実証は後述したいと思う。






ちなみにカウンセラーや心理学者は宗教(者)ではない。
カウンセリングや心理学は、経験科学である。
つまり、何度もデータを取って人間の思考パターンや行動パターンを考えるのである。
そこから患者を、経験上このようなパターンに当てはまるということで、診断を下したり、助言を呈するのである。


しかし、最近はスピリチュアルカウンセラーなどの概念や、江原氏の活躍によって宗教とカウンセリングの概念がごっちゃになっているのも事実である。
本来なら、カウンセリングは宗教者の最も重要な行為であった。
昔は困ったら学識や経験を多く持っている宗教者に聞いたのである。
本来なら、と前置きしたが、この前置きを付けさせるほど本来の仕事をしなくなったのもまた宗教者である。




参考文献

宗教学キーワード (有斐閣叢書KEYWORD SERIES)

宗教学キーワード (有斐閣叢書KEYWORD SERIES)