autonomyとは?


今日の昼に東大に行き、久しぶりに死生学のゼミに参加する。
他大生はたぶん自分だけなので、毎度毎度緊張するのである。

今日のテーマは、医師と患者との理想の関係について。
ある英語の論文を読んで、解釈を加えていくのだが、「autonomy」の概念について議論が勃発。
直訳すれば、「自律性」であるが、果たして医師と患者の間における「自律性」とはなんぞやと。
論文の中には、医師は患者に対して最高の結果となるように、「persuade」しなければならない、と書いてあるのだが、それは「「autonomy」を与える」という意味になり、本当の「autonomy」では無いのではないか、ということが問題点としてあがる。

一つの意見として、「autonomy」とは与えられるものではなく、また啓発されるものではなく、自発的なものであるから、他者(医師)から与えられるのはおかしいということである。
それにたいする意見としては、「autonomy」は関係性のみで意味が発揮するため、別に他者から与えられたとしてもおかしくはない、むしろ他者から得るものであるということである。
前者を「自発型」、後者を「啓蒙型」と区別できる。
しかし、自身は両者の意見はあまり有効ではないのではないかと思った。
「autonomy」は確かに「啓蒙」されるものもあるし、「自発」するものでもあるので、一概に間違いではないが、順番としては「啓蒙」されてから「自発」に至るのではないかなと思う。
よって、「止揚型」というのが、最も有効なのではないかと考える。

また次元が違う話になるかもしれないが、今回の議論では、「autonomy」自体を絶対視していて、それを批判する議論が起きなかったのは、とても残念だった。
自身は、医師と患者の間における患者の「自己決定」なぞはとても懐疑的である。
患者が医師と同等の権利を持つというのは、たしかに理念の上では適切であるが、しかし実際の場では、そんなことはまずあり得ない。
患者が医師と同じような知識と経験を持つなら同等であるが。
また同等の権利を持たれてしまったら、医師の専門職としての在り方に疑問を持つようになる。
ちゃんとした話は、下記の本を参照されたい。

自己決定権は幻想である (新書y)

自己決定権は幻想である (新書y)

リヴィング・ウィル、ドナーカードは法的拘束力も、強制力も持たない。
本当に「意志」なのである。
死者は、死者としての役割を演じなければならない。
「死人に口なし」というのは言い得て妙である。
死んでまで自分の意志を通そうとする手段を得ようとするのではなく、死んででも周りが自分の意志をきちんと遂行してくれる関係を築くことの方がよっぽど大事なのではないだろうか。


ちょっと話が脱線してしまったが、自身が今日の東大での授業で思ったことの趣旨は以上である。
宗教との関連もあるけど、それはもう少し理論武装してからね。