『いのちの始まりの生命倫理―受精卵・クローン胚の作成・利用は認められるか』を読んで


今回は、過去に書いた書評をアップします。
あえて加筆はしません。恥ずかしいですが…


 本書は、今後の日本における生命倫理のあり方をめぐって、主に生命倫理委員会(1997年10月発足、省庁再編後解散)(以下委員会)、生命倫理専門調査会(2001年3月発足)(以下調査会)の一人であった著者による、調査会の運営と審議に対しての報告書であり、1997年から2004年に至るまでの、「ヒト胚」に関して国の審議の総括である。その調査会の結論は、調査会が最終報告でまとめたとおり、ヒト胚を研究目的での作成と利用を認めたのである。つまり、推進派の意見が多く盛り込まれたものとなった。しかし、その報告に対して、新聞各社は結論の拙速さと不十分さをとなえ、委員会、調査会の存在意義を問うたのであった。
 著者は一貫して慎重派であり、委員会では議論の中に他にも慎重な意見が多く出たという。しかし、なぜその論議とは全く逆方向の結論が出てしまったのか。著者は、委員会、調査会のメンバーの中で唯一宗教学からの論客であり、また数少ない文系の学問から選ばれた委員の一人であった。つまり裏を返せば、この審議機関は、ほとんどが理系の研究者で占められており、また科学の推進、特に再生医療の推進に力を入れている総合科学技術会議のもとで行われたため、最終的には結論ありきの議論へと終始してしまったのである。
 本書の目的はこの問題点を、生命倫理に問題関心のある人文学者や社会学者、法学者などの文系の研究者はもちろん、医師や生命科学者の理系の研究者に対してとともに、宗教者や一般の人々に対して情報を提供し、意見を求めるものである。「いのちの始まり」である、「ヒト胚」の研究・利用は、日本人の生命観、倫理観、家族観、人生観を変えうる要素をはらんでいるため、できる限り慎重な議論が必要であろう。再生医療の恩恵を求めるあまりに、あらゆる倫理問題を看過してはならないのではないか。実際、フランスやドイツ、アメリカなどではヒトクローン胚の研究を禁止している。研究を進めている国で有名なのはイギリスと韓国であるが、これらはきちんとした議論を重ねて行っているのである。よって、先述したように、科学技術の向上を推進するメンバーが大半を構成するような会での審議は疑問視されても仕方の無いことだといえる。
 「ヒト胚」や「ヒトクローン胚」というものが、一般に認識されているのかどうかも疑問のままに研究だけが一人歩きするのは危うい、と著者は説く。なぜなら先述したとおり、「ヒト胚」の利用に対して様々な問題点が挙げられ、明確な解決法が見つかっていないからである。問題点のいくつかを挙げられているのを紹介すると、生命の道具化、アイデンティティーの不在化、そして最も大きく捉えられているのが「人間の尊厳」への侵食である。しかし、その問題以前に再生医療における「恩恵」と、人間の尊厳を守るという「倫理」は同じ天秤にかけてもよいのか、という価値判断も指摘している。それに対する答えはおそらく無いと思われるので、敢えて一足飛びして現在議論が行われていると言っても過言ではないのだろう。
 最後に、法制化の問題であるが、これについても著者は言及している。恩恵を優先した法が定まれば、最初は倫理に反する苦渋の念が働くかもしれないが、段々と法に沿っているので、生命への倫理観は薄まるのではないかということを危惧している。これと同じ論法で、生命倫理が科学技術に対して遅れてしまう理由の一つでもあるとも述べている。生命倫理の分野は、日本においてまだまだ未発達なものであることを露呈した一連の動きであった。このことから、もともと日本人の宗教観や人間観と、生命に関わる科学推進は相容れぬものではないかとも思った。