なぜ、臓器移植はここまで問題になるのか


現在、脳死臓器移植について勉強をしている。
森岡正博先生の生命学に照らして考えてみれば、「自分、または自分の親類知人が臓器移植をしなければならなくなったときに、自分の判断としてどのように考え、またそれに対する論理的説明が出来得るか」が焦点である。
なぜ、臓器移植は必要か。
病気腎を使ってまで人は生きたいと思うのか。


自分の体でありながら当然自分の臓器というものは見えない。
この「見えない」というのが非常に大きいのではないか、とも思えてくる。
つまり、例えば自分の顔や顔の一部、他にも腕や足などの体の表面に現れているものを移植、つまり他人のものを付けたのならそれはとても違和感があるのではないか。
また、逆にドナーになって表面部位を提供することも抵抗があるのではないか。
死後でいえば、遺族が死者の体の部位を提供することに対して抵抗を持つだろう。


宗教が臓器移植で語りえるものは、やはり「死の絶対性」だと考える。
死はかならず訪れる唯一の未来である。
臓器移植をしてもいずれ人間は死ぬのである。
しかし、生きたい生かしたい。
現実は、極論では医学を否定することにならないだろうか。
医学と現実との折衝が望まれる。


こう考えていると、先日東京大学清水哲郎先生にお話を伺ったときに、おっしゃっていた言葉が胸にささる。
生命倫理って、つまり人間の生きたいという煩悩について考えるんだよね」
煩悩なのか、本能なのか、人間は本能と理性を分けられるのか。
恒久に悩み続ける人間の本質的問題と、ある先輩に言われたが自分は発展し続ける生命科学がそれを克服(解決)するのではないかとすら思う。


GWに愛媛に行くことになった。
病気腎移植について、地元新聞はいかに報道をしているか、また報道していないか、宗教者は物申しているか、ということについて旅行も兼ねて取材に行く予定である。