自身の研究テーマについて


自分の研究テーマについて再考した週末、一応なぜ変更したのかという原稿を書き上げる。
それをW先生に持っていったら不備をたくさん指摘され、力不足を痛感するところだが、ここにも掲載しておく。
お時間あるときにご笑覧いただけたらと思う。



「日本近代における宗教教育(観)―澤柳政太郎の思想を中心として―」

2007/06/18


1.なぜ「生命倫理と宗教」からテーマを変えたか

 生命倫理諸問題に対して、宗教学から考えるときの特徴を挙げる。ここでいう「生命倫理諸問題」は現代に起こっている医療と社会同意の問題とする。
 第一に、生命倫理諸問題の中心となっているのは医療での現場や臨床研究の現場で起きていることであり、人文系の研究者にとって生の情報を手に入れることが難しいという点である。現実の問題に当るためには、自らの取材や新聞からの情報に頼ることになる。
 第二に、第一の問題のため宗教学(あるいは人文科学)が問えることは、日本人の生命観や死生観、あるいは世界のグローバルな倫理観に沿って現代医学がそれらから外れていないか、また外れた場合原因は何かということである。これは宗教学が医学を〈監視〉することである(ただし、現実には医学は〈監視〉を無視しているといっても過言ではない)。
 第三に、宗教学は「宗教」や「宗教的なもの」を考察する学問である。よって、宗教学から現代の生命倫理諸問題を問えるものは、「ターミナルケア」「スピリチュアルケア」「癒し」などの事後対応が主であり、事前予防や問題が起きた現場に対して即座に問うことは難しいといえる。それを逆に宗教と医療の住み分けというように考えることもできる。ただ構造的に見えてくるのは、宗教学から現代の主たる生命倫理諸問題に対して意見する場合は、自前で実証や検証をすることが難しいので、生の現場を扱う医学に対して後追いになっているということである。
 宗教学から生命倫理を問う論文として、宇都宮輝夫生命倫理の形成と宗教の役割」と、澤井義次「新たな生命倫理への宗教学的視座」(共に『宗教研究349号』2006)を参照してみよう。前者は宗教の役割として、長年に渡り形成してきた宗教観・生命観・倫理観を医学界に問い、誰でも息苦しくない社会を構築することが求められるとしている。後者では、宗教学者生命倫理諸問題に関わる必要性を説き、そのためには「それらの問題に連関する宗教の死生観とその主要な特徴を理解」し、宗教が説いてきた生と死の意味を説明する義務があるとしている。両者とも先端医療と人文科学の摩擦を意識している論調であった。
 ここで最初に列挙した特徴と、宗教学から生命倫理を問う論文での共通点を鑑みるに、医学に対して宗教学が独自に取る事ができうる生命倫理へのアプローチとして、キーワードとなるのが「生命観」であり、それが先端医学に対して抑止力になるということである。これは、宗教学が医学や社会に求められているのは、確実な「生命観」ということと同義であると思う。確実な「生命観」を問わずして、「宗教と生命倫理」を宗教学が検討できないのではないか。
 宗教や宗教学が「いのち」について語るときに、多く使われる「生命観」は果たしてどのように形成されたものであろうか。近年「宗教」という言葉(シニフィアン)とその意味(シニフィエ)を問い直す作業が活発に出ている。同様に「生命観」も再考すべきではないのだろうか。
 また、一つの傾向として、人文科学が自然科学を抑制するときに使用する「生命観」は、恣意的に自身に不利にならない箇所を伝統から選んで説明しているのではないかと思う。「生命観そのもの」をどのように抽出するのかもこれからの宗教学の課題である。

 
2.なぜ「日本近代における宗教教育(観)」を扱うのか

 医療と宗教に関わる「生命観」を問い直すとき、その対象をどこに持っていくべきか。現在進行形の近代医学による新事実の発見で、従来の「生命観」は徐々に変化してきている。ここで問うのは、身体と精神の概念が分離したときに、まずもって人間の「生命観」の変化が始まったのではないかということである。日本において、両者の概念の分離が始まったのは幕末から明治維新後ではないだろうか。その時点を日本近代思想の始まりの一つとも考えられるだろう。
 自身は近代による思想の変化を扱うことによって、生命観を含む日本人の思考を問い直すことができうると考える。そこにおいて、確実な「生命観」を検討した上で、現代における生命倫理諸問題に当たることが望ましいのではないかと、自身の研究テーマを再検討した。これは、自身の問題関心である「宗教と生命倫理」の講究に対して遠回りに感じられるが、長期的な視野から考えるとき近代「生命観」を問うことは必要な作業であると思う。
 次に、近代を研究の射程に入れたとき、なぜ特に宗教教育(観)を考えるかということを説明する。昨今よく耳にする「宗教教育の必要性」であるが、なぜ必要なのかが充分に把握されていないと思う。そもそも宗教教育にも段階があり、簡単には「知識教育」「情操教育」「宗派教育」と分けられる。現代では、公教育において教育と宗教が明確に分離しているため、それらのどれも(意識的には)実施されていない。
 実は明治・大正でも宗教教育の必要性は説かれていた。そこでは、「情操教育」としての宗教教育が主として議論に挙がっていた。一つの倫理教育として考えられていたのである。しかし、近代教育史の研究の中で、近代宗教教育についての研究はほとんど行われてきていないのが現状である。また研究が行われていても、戦後の教育改革によってアレルギー化した国家神道の教育観としての評価を下される傾向が未だに強い。戦後教育や、現代の宗教教育を問う研究は多いが、あまり近代宗教教育は顧みられていないのである。
 強引に「生命観」と教育を結びつけることが可能ならば、人を教育するということはひとつのイデオロギーの下で行われるから、そのイデオロギーの中にもちろん「生命観」も含まれるため、両者はつながってくるということである。イデオロギーの主体は「国家」「地域」「学校」「個人」と様々だが、多様だからこそ各レベルでの「生命観」を問うことの便宜性があるだろう。教育は明治後半期から大正期になるころには、義務として国民ほとんどが受けていたのである。その価値を問うことは必ず近代の「生命観」を問うことにつながると考える。


3.なぜ「澤柳政太郎」を扱うのか

 最後に、なぜ澤柳政太郎を扱うのかを説明したい。澤柳政太郎は明治維新前夜に生まれ、明治初期の近代変革期の中で教育を受けて育ってきた。その思想は多岐に及んでいて、ここでは詳細な説明を省くが、最も重要なのは教育者でありながら宗教界にも多大な影響を及ぼしたということである。
 近代仏教史の中で澤柳は、戒律運動を興した釈雲照と精神主義で有名な清沢満之をつなぐキーパーソンとして語られる場合が多い。その評価は「前近代的」(吉田久一)や「復古主義的」(池田英俊)といったような、やや一元的なものが多い。しかし、教育史での澤柳は、高等教育での女子の受け入れ、成城学園での実験的な取り組みなど、決して仏教史で語られる澤柳の評価を簡単に受け入れられるものではない。
 澤柳は大正大学初代学長でもあり、在家でありながら宗教界と教育界に造詣が深いなど、当時としては稀有な人物であった。彼の宗教史的な役割と教育史的な役割を結びつけながら再評価しつつ近代や近代思想を考え直すことが、近代研究および近代宗教教育研究に貢献できるのではないかと考えている。また最終的には澤柳だけでなく、近代の知識人が宗教教育に対してどのように考えたのかを分類することも、修論の視野に入れている。