京都にいった目的


午後から亀岡の大本本部に行く。
明智光秀がいた旧亀岡城跡にあるとのこと。


久しぶりに見た抜けるような青空。
嵐山を越えて、保津峡を抜ける。
ちょっと街を離れると、すぐに田舎風景、というか絶壁。


亀岡では、「教団付置懇話会」の生命倫理部会が行われた。
各宗教教団の研究者兼宗教者が集まって、生命倫理関連の討論を行っているのである。
今回は、この研究部会で生命倫理学会においてWSを一つ設けるとのことで、浄土宗総合研究所の研究スタッフと生命倫理学会の事務局員の2つの顔で出席することに。
普通ならば、こんな若造に誰も見向きもしないのだが、生命倫理学会の事務局員ということで、乱れ飛ぶ名刺。
うーむ、身分って怖い。


以下にWSの内容に関しての感想。
各宗教教団間(あるいは各宗教者間)で、現実に起こっている問題と、教義あるいは信仰体験との折衝できているかできていないかで、だいぶ温度差があるもんだなぁと思った。
「リアリティ」が議論にあがっていたが、現実問題としての「リアリティ」(たとえば、本物の脳死体を見たことがなく、「脳死」の議論をしている)について話したりする人がいると、それに対して、信仰体験や教義の「リアリティ」(修行をしていると、なにか生命の畏れを感じる。教義の中に身体に関する生命観がある)について言う人もいたりする。
たしかに、宗義からの生命観を保持していくことが大事だが、今回の生命倫理学会で、医療関係者と議論ができるのかな。
できないだろうな。


自分なりにまとめてみると、「いのち」の範囲と自己決定が問題点として上がっていた。
ある発題者は、「いのち」とは、過去世、現世、未来世をつなぐもの、としていたが、そう言われてもあまりピンとこない。
DNAのこと?って思うんじゃないかな、医療関係者は。
自分は「いのち」を「生命」と区別するために、「いのち」=自分が生きているという歴史や環境、「生命」=産まれてから死ぬまでの実存をたもつもの、と理解しているが、どうだろうか。
あと、治療やケアにおいて、自己決定が絶対的に大事とかという風潮であり、宗教者がそれをきちんと守っていかなければならないそうだ。
しかし、自己決定こそ、西欧的な価値観に染まっている感じがする。
「いのち」を重視しながら、自己決定も守っていかなければならないのはやや矛盾している気が。
でも、自己決定を尊重される「いのち」を作っていく努力が必要、となればなんとかまとまるかな。


帰りは、亀岡〜京都の車内で上司のお2人と今後の宗教教団としての在り方をかなりミクロレベルで話す。
4回目の出席ということで、ようやくいろいろ理解できてきたような。