思春期ってこんなに甘酸っぱかったけ、自分


先日先輩から、あさのあつこの『バッテリー』を借りて読んでみた。

バッテリー (角川文庫)

バッテリー (角川文庫)


いやぁ、中学生、戻りたくない。
こんな中学生はいやだな。
先生も大変だ、お母さんも大変だ、先輩も大変だ。


内容は詳しくは述べないが、なぜ野球において投手と捕手がバッテリーと呼ばれるか。
それは名の如く、その2人がいなければ「野球」という本体は動かないのである。
ここで大事なのが投手だけでもダメであり、つまりちゃんと球を受けてくれる捕手がいて初めてバッテリーなのである。
バッテリーは一心同体で、呼吸を合わせなければ投手も100%の球は投げられないのである。
特に思春期の少年など、いろいろな意味で心が揺れ易く、そんなに簡単に100%の球なんて投げられない。


ちょっと、そこらへんが古典的野球作品『巨人の星』を思い出してしまった。
少年時代の星飛雄馬の球は星一徹の傑作、大リーグボール養成ギブスのおかげでちょっとそこらの捕手では取る事ができないほどに速くなっていた。
高校に入り野球部に入部するも、先輩の捕手は取る事が出来ない。
しかし、そこで現れる柔道の全国チャンピオン伴宙太。
紆余曲折を経て、伴は野球部に入り星の球を受け、その後は一生の心の友となるのであった…。
(実は負けず嫌いの伴が同じく負けず嫌いの星とケンカして、結局野球部に入るであろうということを予想して父一徹が伴がいる高校に星を入れた、という策略だった。おそろしや、父一徹…)


話を戻すと、『バッテリー』。そのような思春期の心の揺れで投手が球を投げられなかったり、捕手が球を取られなかったりする。
それを、家族、教師、先輩、同期、ライバル達の様々な配慮で克服していくという青春野球作品である。
後半はちょっと視点が一定してしまい、ややだれてくるのだが、それでも最後(1巻〜6巻)まで読んだときは「野球してー」って思ったりした。




こんな非現実な話あるか、と思いつつ、自分を述懐してみるとなぜかあったりする。
本書のバッテリーのレベルとは全く違い、まぁ一応自分も野球をやっていて中学から高校までピッチャーをしていたのである。
高校生の自分というものは、今思えば多分に「自己チュー」であったもので(ってか当時から監督、同僚、後輩からはそう思われていた)、たいした実力もないくせに捕手を選んでいたのである。
自分はマウンドにいると考えるのがめんどくさいので全てサインは捕手任せ。
けど、一応は自分の投げたい球種、コースはあった。
だから、一発で自分の投げたい球を出してくれると、ピッチングが乗ったりする。
そのため、監督から指示された結構実力のある捕手とバッテリーを組むことを断り、気の合う捕手(まぁこちらも実力は備わっていたのだが)を試合に出してくれと懇願したものだった。
そのような投手は監督47年の歴史で誰一人としていなかったらしく、お会いすると昔話は自分の非難から始まるものだった。
なぜか他の先生方も知っていて、見事な自己チューとして自分は定義されているのである。



嗚呼、結局自分もこんな思春期を過ごしていたのか、と思うと少し恥ずかしい。けど、結構話のネタに使えるな。
だれか小説にしてくれないかな…。